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Vol.1【序】

 昭和36年、廣目屋二代目社長秋田善蔵は、この史篇のもととなった「廣目屋の歩める道」の筆を擱いた。目を閉じて父柳吉(初代社長)とともに生きて、明治弘報事業の先駆をかけめぐった自分の姿、時代の光景、その間に浮び上ってくる己れの哀歓を映し出したにちがいない。彼は明治の終焉の年まで書き綴ってきて、筆を置き、「附記」として次のように書きとどめた。

 明治天皇は明治45年7月30日薨去せられ、同日を以て明治は了り、大正と改元、大正元年となる。
  それから、昭和36年の今日迄既に半世紀、永いようで短かく、短かいようで永いのが人生である。
  併し、永遠の過去から永劫の未来へと続く宇宙から見れば、50年100年といって見てもホンの瞬間にしか過ぎない。
  明治時代の私の足跡否私の父と我が廣目屋の歩める道も、延々25年、うまずたゆまず歩きつづけてきたこの記録も、改元を期に一先ず休むこととします。
  正確な記録があった訳ではない。ただ私の記憶の糸をたぐりたどって書いたもので、多少の誤りや、前後の相違があるかも知れない。その点諒とせられたい。又御叱正を頂ければ、これに過ぎるものはない。
秋田善蔵

 善蔵74歳。おそらくこのあと大正・昭和の記録をも遺すつもりであったろう。しかし残念なことに、書きつがれず昭和40年1月、78歳で世を去った。いまこの明治篇を再編して、廣目屋創業百年の記念の一篇とする。その人、その業、明治の熱気にみちて才気鮮かに日本宣伝弘報の先駆的な歴史を彩っている。

編者

 
 
明治15年(1882)


秋田柳吉
(廣目屋初代社長。愛媛県出身。橋野家より大阪秋田家の養子となる)この年に辰馬貞(関西財閥であった辰馬半蔵の妹)と結婚、辰馬半蔵の後援のもとに天神橋ぎわに酒問屋「秋田屋」を開業していた。
 
 
明治20年(1887)


秋田善蔵
(廣目屋二代目社長)6月19日に兵庫県西宮町で生まれる。柳吉次男、長男新之助は六歳で歿す。
 
 
明治21年(1888)

秋田柳吉上京、京橋五郎兵衛町(いまの八重洲二丁目)に住む。
柳吉、広告宣伝の仕事を始める。屋号を仮名垣魯文(※1)に廣目屋と名づけてもらう。

当時の社会は、宣伝とかPRということにおよそ理解も関心もとぼしく、この事業の遂行発展に柳吉はなみなみならぬ苦心をした。



※1
仮名垣魯文
小説家で新聞記者。江戸京橋に生まれる(文政12年)。江戸文学の伝統をついだ劇作家の最後の一人。「世界ふみ尽し」はその傑作といわれる。のち新聞界に転じ、仮名読新聞「いろば新文」創刊。明治17年には「今日新聞」(のちの都新聞、いまの東京新聞)の主筆となった。当時の社会面記事いわゆる三面記事を面白く書いて人気を呼び紙価を高めた。劇評が新聞の上に現われたのも魯文を最初とする。新聞が民衆化していったのは魯文の才気に負うところが大きい。(明治27年歿す)

柳吉はなかなか度量の広い人で、彼の家では一癖も二癖もある人間がいつも居候していた。そのなかに仮名垣魯文もいたはずで、廣目屋の商標の蛙も魯文の創案と聞いている。

 
 
明治27年(1894)

 日清戦争はじまる。
 連戦連勝で世は、戦争景気で活況を呈す。



 
 
明治28年(1895)

日清戦争の幻燈を芝公園の弥生館で興行して大変な人気を呼び、これが廣目屋興行部の始まりであった。
陸海軍軍楽隊から奏者十数名を引きぬき(※2)、東京市中音楽隊ならびに高等東京音楽隊と称し、お得様の需めに応じ演奏した。

新派俳優、川上音次郎(※3)と提携して浅草駒形の浅草座で日清戦争の芝居を興行。

 日清戦争が清国の降伏で終わる。
出征していた将兵が凱旋することになった。柳吉この凱旋の装飾に着目、新橋駅前に大アーチを、また各所で開かれる歓迎会の装飾を請負い盛業。これが機になって廣目屋装飾部が併設された。



※2
楽長山田栄次郎、約10名で一団を編成。一日の招聘料15円から20円。

※3
川上音次郎
新派俳優(元治元年ー明治44年)筑前博多の生まれ。自由党壮士から落語家の弟子となり、浮世亭○○と名のり、明治14年オッペケペ節で人気をさらった。明治24年書生芝居の劇団を結成して堺で旗揚げ、日清戦争がはじまると、戦争劇を上演人気をあつめて、新派劇を立てた。妻の貞奴と外遊して日本演劇を海外に紹介、たえず野心的な仕事をした。今日の劇場の椅子改革的席も川上の発案からである。

 
         
     
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