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  「株式会社廣目屋」こと『ひろめや』の変遷は、日本の広告業、興行、特に装飾業(ディスプレイ)の歴史にとって非常にエポックメイキングなものでした。この「ひろめやの歩める道」では、日本のディスプレイ黎明期を語る上で興味深いエピソードを「ひろめや」の社史と絡めながら連載していきます。
<月1回の更新予定です。>
   
 

Vol.4【明治38年〜40年】

     
 
明治38年(1905)

1月1日
明治座で日露戦争実写活動写真を興行、大宣伝をして昼夜二回興行、大成功をおさめた。(明治座小屋代、一日百三十円の約束)この頃が活動写真興行の最盛期で、 競争も激烈であった。秋田善蔵は父から興行を一切まかされる、十九歳。当時、興行部は銀座の南紺屋町(現在の銀座西一丁目)有楽橋の角の八十坪の柳吉の別宅を本拠とし、南伝馬町の店舗はビヤホールとした。

3月23日
日露戦争実写活動写真、大阪乗込み(一行二十名)中座で初日をあけ連続十五日間満員の盛況。つづいて京都南座、神戸湊川神社前大黒座。(この時、日本海大海戦の報に接す。)全国民の戦勝に酔う中を興行は六月上旬まで続いた。この時、西村楽天(※)(二十歳)を専属の弁士とする。日当一円二十銭を奮発。興行は下関弁天座、若松旭座、小倉常磐座、博多川条座、長崎榎座、佐世保弥生座、熊本東雲座と南下、各地とも大成功。

6月
柳吉、曽我廼家一座(五郎、十郎、蝶六)三十余名を引きつれて帰京。新富座で旗あげ興行。狂言は「無筆の号外売り」で五郎の出し物が大当たりとなる。引続き明治座、東京座、寿座興行。

 日露戦争、大勝利のうちに終結。

9月5日
下関弁天座での興行中大勝の報に接す。早速講和記念活動大写真大会と銘打って弁天座に大イルミネーションを架設。

一方柳吉は、当時洋行から帰朝した奇術の松旭斉天一、天勝の第一回興行の初日を歌舞伎座であける。大入満員。当日、日露講和ポーツマス条約に不満の人々による交番その他の焼打事件起り、一時休演し十日余をすごして、改めて返り初日をあけて盛況裡に終る。

英国のコンノート殿下日本訪問。外国の貴賓を迎えるのは最初のことで、その歓迎会を歌舞伎座において挙行、同座の内外の杉葉装飾を請負う。

10月
装飾部は凱旋する将兵の歓迎装飾で繁昌を極める。

大山元師凱旋。上野公園竹の台に祝賀会場を引受け公園入口に台アーチをつくる。

東郷海軍大将聯合艦隊指令長官の凱旋、日比谷公園での国民的大歓迎会挙行。 式場設営を引受ける。奥行き六間(約十一米)間口五十間(約九十一米)床張りの式場であった。(請負金坪五円)



※西村楽天、明治十九年大阪花柳界の生まれ。講釈師から映画説明者となり楽天時代をつくる。大正十四年渡米、のち漫談家となる。

 
 
明治40年(1907)

 戦捷景気つづく。

4月
柳吉、新富座で新派劇興行(※)、伊井誉峰、河合武雄の夫婦劇「通夜物語」。入場料一円二十銭。




※井上正夫もこの一座にいた。
伊井、河合の給料は一興行金二千円、井上百五十円。
 
         
 
 ★以下次回掲載に続きます。どうぞお楽しみに!!
     
 
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